金烏玉兎庵

算命学にまつわる雑記の保管庫です。

天中殺と宿命中殺と異常干支、そして社会貢献

たまたま、
宿命中殺と異常干支を持つ人の命式を立て続けに詳述したので、書いておくのですが、

宿命中殺や異常干支のある人は、


ぜひとも陰徳を積んでいきましょう。

 

世のため人のためになることをし、
社会貢献、社会奉仕、
大それたことでなくても、
自分のためではなく誰かのためになることを積み重ねていくことで健やかに運命が発展します。

 

天中殺や異常干支というのは、「虚」なので、人生の道程における枠がなくなります。
普通の人はパイプのように上限も下限ある中に生きているのですが、
天中殺中や宿命中殺のある人、異常干支のある人は、そうした上限と下限が取り払われて大きく発展することもあれば大きく下落することもあります。

一般的に恐れられているような下落ばかりがあるわけではないのですが、
発展しすぎても宿命から乖離して淘汰の危機にあうこともあるので、
上限下限のない状態というのはやはり危険です。

 

しかし、世のため人のため、何かしらの貢献をしている限りはそうした淘汰の危機に合うことなく、逆に追い風を受けることができるので安定します。


よって、上限下限のない時期やそうした宿命の人は、
道を誤らないように、
大きく逸れてしまわないように、
ぜひ社会貢献をしましょう!
ということになるわけです。

 

ヤクザドラマなどで、
「利用価値があるうちは殺されない」
というセリフがありますが、
実は宇宙の仕組みも同じです。

誰かしらの人の役に立っている限りは、
生かされて助けられることができます。

 

よく、
天中殺の時期は「受け身」で過ごすのが良いといわれます。
宿命中殺のある人は「受け身」でいるほうが開運しやすいともいわれます。
異常干支のある人も「受け身」のほうが健やかに過ごせます。

 

ぐぐるとそんなことを書いてあり、
「受け身」って何??
という質問をされたりするのですが、
一般的な「受け身」という言葉から思い描くことと、算命学でいう「受け身」は実は異なります。

何でもかんでもただ流されるままにあれば良いのかといえばそうでもなく、
実際、宿命中殺がある有名人などを見ていると、必ずしも「流されて」いるわけではないことが分かります。

 

実はこれについては随分前にも別の角度から書いた気がしますが、
時間も経っているので、これを機に改めてこの「受け身」とは?ということも書いておくことにします。

 

算命学でいうところの「受け身」を一言で言えば、
「自分の利益になることをしない」
ということになります。

よって、
よく天中殺中は引越しをしないほうがいいとか、
転職をしないほうがいいとかいわれますが、
それが自分の利益のためでない限りは問題ありません。
「自分の利益」とは、自分の立身出世、経済的利益など現実的な利益恩恵を指します。

 

「何かをしない」ではなく「何かをする」という選択をしたい場合、
それは社会奉仕や社会貢献、陰徳を積む、
ということであればこれも問題ありません。

つまるところ、
社会貢献をしましょう!
ということになります。

 

ちなみに、
「受け身」で自分のやりたいことをする場合、
どこかに「世のため人のため」になる要素を折り込むと良いです。

例えば野球の選手がホームラン一本につき寄付をする成績連動型の寄付というのがありますが、そんな感じです。
お笑い芸人の方などでも、
売れたら何かしらの寄付をしたりすると願掛けしたりしていますが、
それも同じです。

 

自分がやりたいことと社会貢献をリンクさせると、天中殺や宿命中殺、異常干支があっても健やかな発展を見ることができます。

冲殺とか対冲とか相剋とか

冲殺とか対冲、相剋とかの捉え方について、
冲殺されるものとか剋されるものが「消える」とか「薄くなる」みたいな捉え方をする方がけっこういるのですが、
感覚としては「不安定になる」というのが適切なんじゃないかな?と私は思っています。

 

対冲は冲動ともいい、いわゆる「普通」の枠に収まらずガタガタと動く足場が安定しない感じです。
相剋はハードルがある分、「普通」の在り方では超えられない感じです。
冲殺は、その部分において枠がなくなるので、大きく動き回ることができる状態です。

 

西洋思想に基づく教育を受けている場合(戦後の日本人はほぼ西洋思想に基づく教育を受けています)。
東洋思想の言葉をどうしても西洋思想の枠組みで捉えようとしてしまうので、
冲殺はやっつけられるから弱くなるとか、
相剋は攻撃されるからその要素がなくなる、みたいな感じで解釈しがちですが、
東洋思想はもっと生々しく人間やその動きを捉えるので、
生々しい人間はやっつけられたり攻撃されたらどうするか?
と考えるほうが適切な解を得られます。

 

生々しい人間は、
やっつけられたり攻撃されたら大人しく言うことをきくのではなく、
ジタバタします。
兎にも角にもどうにかその状況を緩和するために動き回ります。

冲殺や対冲、相剋というのは、
そうした動きのように私は思います。

 

冲殺や対冲、相剋があると、
「イタタタ」
と思ってしまう、あるいはそんなふうに書かれてしまうのは事実なのですが、
本質はどうかといえば、
そうやって刺激を受けることによって
「なんとかしなければ!」
という気づきをもたらす要素であるともいえます。

 

才能占技などでは、
刻線の多いところが才能の在り処と言われたりしますが、
「なんとかしなければ!」
と思ってなんとかすることができればそれは才能として光りますし、
「なんとかしなければ!」
と思ってもどうにもできなければ、
刻されて沈んでしまいましたね、
ということになります。

 

ジタバタ動くということは、
周囲との関係において穏やかには推移しないわけで、
そこには摩擦や苦しみがあり、
簡単には解決できないわけですが、
「解決できないこと」にぶつかることが宿命にあるということは、
「解決できないこと」を解決することが人生の課題であるということでもあります。

 

課題なんてないほうがいい、
というのも分かりますが、
課題のない人生は退屈、
という考え方もあります。

 

世の中にはいろんな人がいるものの、
文明社会では「これがラク」という情報にあふれているので、
「課題バンザイ🙌」
と言える人は少なくなっている気がしますが、
宿命に冲殺や対冲、相剋のある人は、
課題を楽しむべき人なのではないかと思います。

 

ゲームにしても、
簡単すぎると作業的になってしまうものですが、
そうした簡単すぎるものはつまらない、という価値観を実は持っている人、
というのが、宿命にそうした要素を持っている人なんだと思います。

 

ネットでぐぐると「常識」とか「一般論」に根ざした悲惨なことばかり書いてあってへこみますが、
算命学では良いも悪いもありません。

自分の命式こそが自分にとってベストの生き方であり、
そこに人生を歩むための地図があります。

とりわけ「これは苦しい」と思えるような要素こそが、
実は自分の人生を歩む上での「灯台」であったりします。

 

冲殺や対冲、相剋のある人は、
ぜひそうしたところに注目し、
そこを愛して欲しいな、
と思います。

 

…半分以上、自分に向けての言葉です 笑

 

何かと試練はありますが、
こうしたジタバタした動きをどう制御するか?
どう消化していけば良いか?
という問いはなかなかもって取り組み甲斐があるな、
と私は思っています。

簡単ではない要素を持つことを祝福として捉えていきたい、
そんなことを考えました。

凶運の局について

星図において相剋がある場合、いわゆる凶運の局に入ります。
局法については前に書いたのでここでは割愛します。

 

この星図の相剋において、
縦線(南北)にあるものは精神的な形で現れ、
横線(東西)にあるものは現実的な形で現れます。

また、この相剋で剋される側が感性の星である火性・水星が絡んだものである場合、感情的な問題(衝突、葛藤)となり、
剋される側が現実性の星である木性・金性・土性のいずれか同士の相剋の場合、現実的な問題(喪失)となります。

 

火性とは鳳閣星と調舒星、表現や伝達の星ですが、これが剋される(水性の星と共にある)と表現したり伝えたりすることに葛藤が生じます。
うまく伝えられなくてイライラしたり怒ったりすることもあります。

 

水性とは龍高星と玉堂星、習得や知性の星ですが、これが剋される(土性の星と共にある)と、人格を損ないます。土性といえば財の星ですが、金に転んだりします。

 

金性とは車騎星と牽牛星、実行力と名誉の星ですが、これが剋される(火性の星と共にある)と、実行力や責任感が弱まります。車騎星や牽牛星は女性から見ると夫を示す星ですが、これを剋す型を星図に持つ女性は夫を剋すため自分が家計を担うことになったりします。

 

土性とは禄存星と司禄星、財と愛情の星ですが、これが剋される(水性の星と共にある)と、財と愛情が荒れます。
お金がたくさん入ってきても、入った分だけ使ってしまう上に、その使い道も必ずしも賢くはありません。
パーっと使うものの家族には理解されなかったり、思いがけない出費にあいやすかったりします。

 

木性とは貫索星と石門星、守りと信念の星ですが、これが剋される(金性の星と共にある)と、名誉を受けたり何かを実現したりすることで(金性が光ることで)守りたいものを損なったり、信念を失う弱さが現れたりします。

 

こうして書き連ねると、
「あーしんどい」
という感じですが、
こうした性質は普段から意識してコントロールしようと思えば十分制御できます。
特に社会人になって組織で働いたり、
部活動など規律の中で活動したりしている人は、
こうした凶運の局に入っていても、普段はあまりはっきり出ないもの。

ではどういう時に出るかといえば、
切羽詰まったときとか、
追い詰められているとき、
気持ちや時間、環境などにおいて余裕がないときに、スコーンと出てきます。

いわゆる「地が出る」「本性が出る」「馬脚を現す」ということ。

それが悪いということでもないですが、
円満に生きていくという前提の場合、
こうした事態を避ける方法を知っておくことは有効です。

ではどうすればその事態を避けられるかといえば、
兎にも角にも余裕を持って行動するのが良いです。

自分を客観視し、モノゴトから少しばかり距離を置いて上品に余裕をもっていれば、ある程度コントロールできます。

 

モノゴトに近づきすぎると危険です。
急いで走ったりしているときもかなり危険な気がします。

本日ちょっとしたアクシデントがあり、
自戒を込めて書いておきます。

ノートルダム大聖堂の火災

ノートルダム大聖堂の火災。
原因は失火らしいとのことですが、
この一報を聞いて真っ先に浮かんだのは
「悪政は天災を招く」という言葉。

 

初めての海外旅行でパリを訪れて以来、
久しくパリは私の中では、
不動の「世界一素敵な場所」でしたが、
マクロン政権発足以降、
荒ぶパリ、フランスに心を痛めています。

 

早々に募金を募り始めたのもいかにもマクロンらしく、それもあまり良い印象を受けません。

変わりゆくパリを象徴するかのようなこの火災。
ノートルダム」はフランス語で「私達の貴婦人」という意味で聖母マリアを指すらしいですが、果たして。

 

 

ちなみに、日本における大規模な天災といえば、

阪神淡路大震災東日本大震災ですが、

阪神淡路大震災のときは村山連立政権、

東日本大震災のときは菅民主党政権です。

悪政であったかどうかは人によって判断が分かれるところですが、不安定な政権であったのは事実。

 

水性は集団意識に呼応する性質があると言われますが、集団の意識というものが不安定になると、天災を呼び、それによって何か新しいものなら視点なりを導くとすれば、

施政者は天変地異や天災、大きな事故などについて謙虚にその意味を内省する必要があるのだろうと思います。

 

天貴星 神田うのさん、後藤久美子さん

十二大従星に天貴星という星があります。
赤ちゃんの星である天印星の次、
思春期の星である天恍星の前、
自我が芽生えたばかりの年頃の星、
幼稚園から小学校低学年くらいまでの子供の心を持ちます。

幼稚園から小学生くらいの子供ってどんな感じかイメージできるでしょうか?

無垢で純粋に可愛らしく、
眼に映るものに対して健やかな好奇心を持ち、
それゆえに濁ったものに反発する生意気さがある一方、
美しいものを愛すること、
自分を美しく飾ることにてらいのないキラキラした年頃です。

例えば、
小公女セーラ
小公子セドリック、
あの美しく健やかで、
正義感が強く不純な大人に立ち向かう凛々しい子供。
ときに挫折し、悔し涙を浮かべる子供。
それらを含めて一つ一つの振る舞いが大人の微笑みを誘う子供。

天貴星には、そんな「理想的な子供」らしさのある子供の性質があります。

しかし一方で、
ある面では思春期よりも自意識が強く、
他者によって歪められる前の、妥協のない真っ直ぐさがあり、
純粋さのままに突き進んで
合わないものを排除したり他者の言葉を受け入れない性質もまた持ちます。

この年齢は様々なこと、
言葉や感情表現はもちろん、
生きていく上で必要なことを学ぶ時期であるため、
高い学習能力を持つのですが、
純粋な真っ直ぐさゆえに、学んだことを学んだままに受け入れ、硬直的で応用が効きにくく、
柔軟性や発展性に欠けるきらいがあります。

これは言い換えれば、
この時期に学んだことに考え方が固定化される傾向、
「三つ子の魂百まで」の性質といえ、
この時期にきちんとした親の元で健全な教育を受けると、生涯健やかな性質をもつといえます。

天貴星といって思い浮かぶのは神田うのさんと後藤久美子さん。
どちらも「生意気」「真っ直ぐ」「キラキラ」のキーワードがぴたり。
神田うのさんは若年期と壮年期に天貴星があり、
後藤久美子さんは若年期と晩年期に天貴星があります。
(ちなみに神田うのさんの晩年期は芸術家の天胡星、後藤久美子さんの壮年期はモテモテの天恍星です)

どちらも、きちんとした家庭に育ったことがその後の人生において光になっていることが分かります。

彼女たちを見ていて、
天貴星のある人は、
子供の頃(若年期)に描いたビジョンの通りの人生を歩める人であるのかな?
と思いました。

陰陽と高い次元でお金を稼働させること

ブログの更新が途切れました…。
溜めている命式を観ていたら、0時を超えてしまって、また1からです。
「継続」が途切れることにも意味があると思うので、改めて再開します。

 

途切れついでに少し別の角度のこと、
新紙幣のデザインが発表され、改めて「お金」について考えたことを書いておきます。

私は社会人になって以来、
一貫してお金や資産にまつわる仕事に従事しているのですが、
その理由は「お金」の本質を知りたいと考えているからです。
その私の現時点での「お金」についての考察です。

 

お金について最近の潮流は電子通貨や仮想通貨ですが、
私はそうしたお金の「カタチ」についての論議は、本質を損なうと感じています。

「紙幣は時代錯誤」とか、
ビットコインは新しい」とかいう話は、ギグエコノミーの担い手に任せておけば良いと感じています。
私もそれらを使いますが、本質ではないと思っています。
紙幣を刷ることの効用は、様々にありますし、
日本において紙幣流通率が高いことによる世界的な優位性というのも実は山ほどありますが、それもあくまでカタチの話であって本質ではありません。

ちなみに、私はその両方のカタチにはそれぞれ意味があると思っているので両方使っています。
1万円程度は現金で持ち歩き、生活は可能な限り電子マネーかカード、
へそくりは現金みたいな感じです。
一人暮らしでへそくりもおかしな話ですが、西方対冲があるので、いろんな銀行に分散し、カタチも分散しておく方が貯まります。

 

それはさておきお金の本質です。

算命学を学び始めて腹落ちしたのは、
お金の仕組みもまた陰陽であるということです。
言い換えれば、
お金の本質的な仕組みは、今なお物々交換であり、思いの交換であり、利害の均衡であるということです。

何かを得るには、
それと同等の何かを手放す必要があるか、
それと同等の役に立つ何かをする必要がある。
何かを過分に受け取ってしまった場合、その残りは「借り」であって、
どこかでその借りを返さなければ、
自動的に強制徴収されることになる。

 

こうしたことは言い古されたことですが、
やはりその本質はそこにあり、
どれだけ「お金」を受け取り手に入れたとしても、その本質を欠いている限り、
「お金」によって得られる効用を手にすることはできないのだということを、改めて感じたので書いておきます。

 

受け取ることが陰、
支払うことが陽、
あるいは、
貯めることが陰、
使うことが陽です。

これを少し次元を上げた言い方でいえば、
人の欲求が陰、
その欲求を叶えることが陽、
人に借りを作ることが陰、
人に借りを返すことが陽です。

 

その陰陽のバランスが均衡することが必要で、
そのバランスが崩れるとバランスするための何かが起こり、
大きくバランスが崩れると崩壊します。
一方で、
その陰陽のバランスが均衡し、
そのバランスが長く継続していくと、
そのバランスを構成する輪、円、球、その及ぶ範囲、影響力が大きくなっていきます。

 

商売を自分でされている方なら、
分かるのではないかと思います。

 

お金持ちになりたいなら信用を積み上げるべし、
といわれますが実際には、
お金持ちになりたいなら陰陽のバランスの輪を大きくしていくべし、
ということなのだということです。

 

言い換えると、
お金を使うとか貯めるとか、
お金を払うとか受け取るとかいうことの範囲においてはお金持ちにはなれない(=大きく儲かることはない)けれど、
真の欲求を発しそれを叶えてもらう、
その借りをきちんと返していく、
というレベルになると、大きく儲かる歯車が動き出す、ということです。

 

これをさらに言い換えると、
何かを労なく手に入れることは、
ラッキーなのではなくある種の負債を負うということといえます。
ラッキーで何かを手に入れたら、
それに見合う何かを施すか手放すか、あるいはそれに見合う役割をどこかで果たす必要があります。
そうでなければ、予期しないところで何かを失います。

ラッキーとは、
何かを理不尽に手に入れてしまった後、
その理不尽を解消するような償いの機会に恵まれたことを言います。
よって、あぶく銭が入ってきた後で何かを壊したり無くしたりしたとすれば、
それはその程度で済んで良かったと喜ぶべきです。
悪くすれば、もっと大事なものを失っていたかもしれません。

 

お金の本質。
それは、単なる貨幣と物やサービスの交換という次元を超え、
欲求の交換、信用の交換の次元に至って稼働し始めるもの。

紙幣とか電子とかいうのは前者の議論であって、後者においては人間同士の生々しい営みの交換こそに意味があり、本質的な「お金」の効用、豊かさは、後者にしかないということ。

 

見落とされた方もいるかもしれないので補足しておくと、
「欲求を発する」
「借りを作る」
というのも、高い次元でお金を稼働させることに寄与します。

 

かなりわかりにくい話を書きました。
そのうち、もう少しわかりやすい言葉で書こうと思います。

 

 

なお、お金を手に入れるほどにその実不幸になる人がいます。
どういう人かといえば、
例えばお金儲けのプロセスにおいてラクをしたり不義理をしたりしたその因を解消できない人、陰陽のバランスをとることができない人です。

五行でいえば土性の強い人は引力の強い人ですが、
そうしたラクに手に入れたものにしがみつき、手に入れた何かを手放せない。
コレクションしたりして溜め込んでいく性質があり、結果としてアンバランスになります。
よって、土性の強い人は寄付をするとか施すとか、何かしらの形で手放していく、世の中に還元していく習慣が必要です。

親と子と子育ての話

子育てにおいて、
親のコンプレックスの解消のために子どもを育てる人がいます。

 

例えば、
バイオリンを習えなかったからバイオリンをやらせるとか、
名門校に行けなかったから進学塾にいかせるとか。

しかし、そういうパターンは、大抵うまく行きません。


基本的に、蛙の子は蛙です。
バイオリンの経験のない親にバイオリンの名手を育てることはできないし、
名門校に行けなかった親の子が名門校に行くこともありません。

 

たとえば、
たいへんな英才教育を施して、それらを達成し得たとしても、
それは短期的なことであって、
結果としてその親の望みを叶えた子どもはその後の人生において大きな歪みを抱えることになります。

 

そして恐らくその子どもは、
30代、40代になって、
「この道は違ったんじゃないか」
と、気づきます。

 

唯一、トンビが鷹を産むような、
親と異なる才能を開花させることがあるとすれば、
それは子どもが自発的にその何かに取り組んだときだけです。

本当に子どもを思うなら、
自分の価値観を押し付けることなく子どもの適性を見極めて育ててあげることが望まれるように思います。

 

 

自分の子供のことを話すとき、
「かわいい、かわいい」
と一生懸命に言う親がいます。

 

そう言う親の子どもに限って、一般的な外見という面では可愛くなかったりすることについて、不思議に思っていたのですが、

実はその親本人も、
多くの場合「外見的に可愛くない」ことを認識していてその上で、
子どもに対してもまわりに対しても、
そして自分に対しても、
「かわいい」という洗脳を試みているのだそうです。
一種の認知的不協和の解消です。

 

こうしたことは、
親に
「自分の理想の子供」
「自分の子供であればこうあってほしい」
といった思いが強くあったり、
自己評価と周りからの評価のギャップが大きいような場合において顕著です。

 

これもまた、
子どもには良い作用を生みません。

こうして育てられた子どもは、
「自分ではない何か」
になることを強いられて育つことになるので、
本質的に自分を信じることができなくなります。

「自分ではない何か」を目指すということは、
根っこのない木を育てることに似ています。
見た目には整って見えたとしても、
腹が座らず、いざというときに踏ん張ることが出来ません。

 

唯一、親の理想、親がこうあってほしいと思うとおりに子どもが育つことがあるとすれば、
生まれたときから、一貫してそうした「理想」を実現していく教育を継続できたときだけです。
たとえば、歌舞伎役者の子どもが一貫して歌舞伎役者になるべく育てられる場合、その子どもは立派な歌舞伎役者になることが出来ます。

 

子どもを愛情深く育てることと、
子供の才能を引き出すことは、
多くの場合、矛盾します。
取り分け、一人っ子の場合、
愛情と期待が集中しがちであるため、
親の側にアンバランスがあると、そうした歪みがより大きく子どもに投影されます。

………
こうして書くと、
いかにもそれが悪いことのように思われそうですが、
実際にはそれが良くないかといえばそうでもありません。


実は今生きている人の大半がそうした歪みや矛盾の中に育ち、
その歪みや矛盾と戦いながら自分を見つけていくというプロセスを生きています。

 

何を言いたいかといえば、
あらゆることはあるがままの中で機能し、
特に過保護にしなくても、
生まれ出ずるべきものは生まれ、
そうならないものは自然淘汰の一環であるという話。

 

悪とされるものにも善たる面があり、
悪とされるものの本質が悪であるとは限らないという話。

 

そして、
たとえそうだとしても、
親と子の関係において、親は自分が子に為していることがエゴではないかを問い続ける必要はあるだろうという話。


それを改めないまでも、「自分が正しい」と過信する愚を犯すことは避けるべしらという話。